「こいづば鹿さ呉でやべか。それ、鹿、来て喰」と嘉十はひとりごとのように言って、そ
れをうめばちそうの白い花の下に置きました。それから荷物をまたしょって、ゆっくりゆ
っくり歩きだしました。


                        宮沢賢治「鹿踊りのはじまり」より
安比高原の「ウメバチソウ」
作品ID43760

鹿はそれからみんな、みじかく笛のように鳴いてはねあがり、はげしくはげしくまわりました。
 北から冷たい風が来て、ひゅうと鳴り、はんの木はほんとうにくだけた鉄の鏡のようにかがやき、かちんかちんと葉と葉がすれあって音をたてたようにさえおもわれ、すすきのまでが鹿にまじって一しょにぐるぐるめぐっているように見えました。
 嘉十はもうまったくじぶんと鹿とのちがいを忘れて、
「ホウ、やれ、やれい。」とさけびながらすすきのかげから飛び出しました。
 鹿はおどろいて一度に竿さおのように立ちあがり、それからはやてにかれた木の葉のように、からだをななめにしてげ出しました。銀のすすきの波をわけ、かがやく夕陽ゆうひの流れをみだしてはるかにはるかにげて行き、そのとおったあとのすすきは静かな湖の水脈みおのようにいつまでもぎらぎら光って居りました。
 そこで嘉十はちょっとにが笑いをしながら、泥のついて穴のあいた手拭てぬぐいをひろってじぶんもまた西の方へ歩きはじめたのです。
 それから、そうそう、こけの野原の夕陽の中で、わたくしはこのはなしをすきとおった秋の風から聞いたのです。


引用:青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/

▲サイトトップページ  IHATOVE&APPI 2007 リンクフリー